イップス克服実績 山室 公志郎 選手
桐光学園高校時代、関東No.1投手とも言われ注目を浴びながら、イップスに悩み、プロ野球への道が遠ざかる。しかしイップス研究所でのイップス克服を機に、大学野球での活躍を経て、見事プロ入りを果たした、千葉ロッテマリーンズ・山室選手の克服体験記です。
プロフィール
選手名 | 山室 公志郎 |
---|---|
出身地 | 神奈川県横浜市 |
生年月日 | 昭和62年7月14日 |
身長・体重 | 181cm、82kg |
略歴 |
【中学】瀬谷ボーイズ 【高校】桐光学園(甲子園ベスト8) 【大学】青山学院大学 |
近況 |
【2009年11月】プロ野球 千葉ロッテマリーンズ入団!(育成枠) 【2010年7月】千葉ロッテマリーンズ支配下登録 |
山室選手のイップス克服体験記
私は3歳の頃に兄の影響もあり野球を始めました。当然最初は遊びの延長でしかなかったと思います。しかし、小学校2年生ぐらいからピッチャーをやるようになり、野球をスポーツとして楽しむようになりました。 中学生になり、学校の部活ではなく、横浜瀬谷ボーイズというクラブチームで野球をすることにしました。 それは高校で野球をする時の為に、早くから硬式ボールに慣れておきたかったからです。
もちろん、ただ高校で野球をしたいというだけではありませんでした。 高校で野球をやるなら甲子園に行きたい。そのために一番良い環境を求めたのです。 中学でもピッチャーを続け、神奈川の桐光学園から声を掛けてもらい入学しました。
高校に入学してすぐの春季大会の決勝、東海大相模戦で先発を任され、この試合が私にとって公式戦初出場でした。 試合前に監督から「インコース攻められるか?」と聞かれた私は、なんの迷いも無く「はい」と答えたのです。今思えば、1ヶ月前まで中学生だった私がいきなり決勝で先発して、緊張しないわけがありません。 試合自体は負けてしまいましたが、夢中で投げていた私はこの試合で、高校でも通用することを確信しました。 夏の大会でも2試合登板し、3年生が引退した新チームで背番号1をもらいました。
この頃にはエースとしての自覚を持ち始め、「甲子園に行きたい」ではなく「絶対に甲子園に行く」という意識に変わり始めました。 そのために自分には何が足りないのか、何をすれば良いのかを考えました。 技術どうこうよりも、やはり体を作ることがまず一番だと思い、冬の間はとにかく足腰、腹筋を鍛えました。おかげで体重も増え、球速も135キロから142キロまで上がり、制球も安定するようになりました。 この頃の私は、ピッチャーとして誰にも負けない自信がありました。
しかし、2年生になってからの春、夏ともに準々決勝で横浜高校に破れてしまいました。 この時の横浜高校のエースは現・西武の涌井投手です。
涌井投手と投げ合い、私は衝撃を受けました。高校生でここまでのピッチングが出来るのかと。しかしこの事が私にとって非常に大きかったのです。 確信はありませんでしたが「自分もやればできる」そう思いました。
そして3年生になり、甲子園出場と共にプロになりたいという気持ちが強くなりました。 しかし、冬が終わり春になったとき、腰痛に悩まされるようになり、私の野球人生が大きく変わっていきました。 今まで野球をやってきて、大会で1試合も登板しないということはありませんでした。 でも、3年の春季大会は腰痛の影響で登板することが出来ませんでした。
春季大会が終わり、腰痛も良くなり練習試合でも投げられるまでに回復しましたが、夏の大会前に腰痛が再発してしまいました。それでも何とか投げることは出来ましたが、本来の自分のピッチングとはほど遠いものでした。 正直、甲子園出場も諦めかけていましたが、チームメイトの頑張りで甲子園に出場することが出来ました。しかし、甲子園に出場できたことは良かったのですが、心の中では素直に喜べませんでした。それは、自分の体がベストの状態ではないことと、背番号が10番になってしまったからです。 スポーツは背番号でするものではないといいますが、小学校の頃から1番をつけてきた私にとってはとても重要だったのです。 甲子園では3試合に投げましたが、調子が戻ることはありませんでした。 そして、高校野球も終わり進路について考えたとき、もう1つの目標であったプロになる事も、高校から行くことは諦めました。そんなときに青山学院大学からの話しがあり、大学で4年間レベルアップして、もう一度プロを目指すことを決めました。
怪我も治り、大学に入りすぐベンチに入れてもらうことが出来ました。しかし、ここから私のイップスが始まりました。 試合中にブルペンでピッチングをしていたとき、暴投をしてしまい、そのことがきっかけでイップスになってしまいました。 ストライクを投げなきゃいけないと考えれば考えるほど、どんどんコントロールが悪くなり、自分の投げ方もわからなくなっていきました。
それでも目標があった私は、投げることを辞めませんでした。とにかくコントロールを良くするために色々なことを試しました。しかし結果は出ず、このまま野球を辞めようかと悩んだ時期もありました。 このことを親や先輩に相談したとき、本当に親身になって話しを聞いてくれたのです。 「自分が今こうして野球が出来ているのは、決して自分ひとりの力じゃない。周りで支えてくれている人がいるからこそなんだ。」ということを実感させられました。
そして私はイップス研究所(横浜催眠心理研究所)の存在を知り、訪ねることにしました。 河野先生にシャドウを見てもらったとき、一発で「そりゃイップスになるよ」と言われました。「何でだと思う?」と聞かれても、私には全く解かるわけがありませんでした。 話しを聞いていると、目の使い方を指摘されました。
私は3歳の頃に兄の影響もあり野球を始めました。当然最初は遊びの延長でしかなかったと思います。しかし、小学校2年生ぐらいからピッチャーをやるようになり、野球をスポーツとして楽しむようになりました。 中学生になり、学校の部活ではなく、横浜瀬谷ボーイズというクラブチームで野球をすることにしました。 それは高校で野球をする時の為に、早くから硬式ボールに慣れておきたかったからです。
もちろん、ただ高校で野球をしたいというだけではありませんでした。 高校で野球をやるなら甲子園に行きたい。そのために一番良い環境を求めたのです。 中学でもピッチャーを続け、神奈川の桐光学園から声を掛けてもらい入学しました。
高校に入学してすぐの春季大会の決勝、東海大相模戦で先発を任され、この試合が私にとって公式戦初出場でした。 試合前に監督から「インコース攻められるか?」と聞かれた私は、なんの迷いも無く「はい」と答えたのです。今思えば、1ヶ月前まで中学生だった私がいきなり決勝で先発して、緊張しないわけがありません。 試合自体は負けてしまいましたが、夢中で投げていた私はこの試合で、高校でも通用することを確信しました。 夏の大会でも2試合登板し、3年生が引退した新チームで背番号1をもらいました。
この頃にはエースとしての自覚を持ち始め、「甲子園に行きたい」ではなく「絶対に甲子園に行く」という意識に変わり始めました。 そのために自分には何が足りないのか、何をすれば良いのかを考えました。 技術どうこうよりも、やはり体を作ることがまず一番だと思い、冬の間はとにかく足腰、腹筋を鍛えました。おかげで体重も増え、球速も135キロから142キロまで上がり、制球も安定するようになりました。 この頃の私は、ピッチャーとして誰にも負けない自信がありました。
しかし、2年生になってからの春、夏ともに準々決勝で横浜高校に破れてしまいました。 この時の横浜高校のエースは現・西武の涌井投手です。
涌井投手と投げ合い、私は衝撃を受けました。高校生でここまでのピッチングが出来るのかと。しかしこの事が私にとって非常に大きかったのです。 確信はありませんでしたが「自分もやればできる」そう思いました。
そして3年生になり、甲子園出場と共にプロになりたいという気持ちが強くなりました。 しかし、冬が終わり春になったとき、腰痛に悩まされるようになり、私の野球人生が大きく変わっていきました。 今まで野球をやってきて、大会で1試合も登板しないということはありませんでした。 でも、3年の春季大会は腰痛の影響で登板することが出来ませんでした。
春季大会が終わり、腰痛も良くなり練習試合でも投げられるまでに回復しましたが、夏の大会前に腰痛が再発してしまいました。それでも何とか投げることは出来ましたが、本来の自分のピッチングとはほど遠いものでした。 正直、甲子園出場も諦めかけていましたが、チームメイトの頑張りで甲子園に出場することが出来ました。しかし、甲子園に出場できたことは良かったのですが、心の中では素直に喜べませんでした。それは、自分の体がベストの状態ではないことと、背番号が10番になってしまったからです。 スポーツは背番号でするものではないといいますが、小学校の頃から1番をつけてきた私にとってはとても重要だったのです。 甲子園では3試合に投げましたが、調子が戻ることはありませんでした。 そして、高校野球も終わり進路について考えたとき、もう1つの目標であったプロになる事も、高校から行くことは諦めました。そんなときに青山学院大学からの話しがあり、大学で4年間レベルアップして、もう一度プロを目指すことを決めました。
怪我も治り、大学に入りすぐベンチに入れてもらうことが出来ました。しかし、ここから私のイップスが始まりました。 試合中にブルペンでピッチングをしていたとき、暴投をしてしまい、そのことがきっかけでイップスになってしまいました。 ストライクを投げなきゃいけないと考えれば考えるほど、どんどんコントロールが悪くなり、自分の投げ方もわからなくなっていきました。
それでも目標があった私は、投げることを辞めませんでした。とにかくコントロールを良くするために色々なことを試しました。しかし結果は出ず、このまま野球を辞めようかと悩んだ時期もありました。 このことを親や先輩に相談したとき、本当に親身になって話しを聞いてくれたのです。 「自分が今こうして野球が出来ているのは、決して自分ひとりの力じゃない。周りで支えてくれている人がいるからこそなんだ。」ということを実感させられました。
そして私はイップス研究所(横浜催眠心理研究所)の存在を知り、訪ねることにしました。 河野先生にシャドウを見てもらったとき、一発で「そりゃイップスになるよ」と言われました。「何でだと思う?」と聞かれても、私には全く解かるわけがありませんでした。 話しを聞いていると、目の使い方を指摘されました。
そして、イップスは自分自身が受け入れて、治すのではなく、克服していくものだという事を教えてもらいました。 そこから私の考え方が少しずつ変わり、徐々にピッチングでもストライクが入るようになっていきました。元々変化球には自信があったこともあり、試合でも登板できるようになり、4年春のリーグ戦で4試合に登板、ストレートも154キロを計測し、2勝することが出来ました。 高校までは投げることに絶対の自信を持っていた私が、大学に入ってイップスになり、投げることに対して自信を失っていました。でも今は、少しずつ自信を持つことが出来るようになりました。それは自分と向き合い、自分の力を信じて、イップスを理解することが出来るようになったからだと思います。